その頃はまだ、毎日が同じ日本とは思えないほどの暑さで・・・。
肌にまとわりつくような湿った空気。
体温が必要以上に高いような気がしてしまう。
「暑ぃ・・・」
なんてもんじゃねえな!東京の熱帯夜っつーのはよ!!!
俺は身体を起こし、汗でピッタリ張り付いたTシャツをぱたぱたさせる。
が、当然ながら何ひとつ効果はなく。
思わず深いため息をつき、背後の窓に目を向ける。
開け放った窓。
網戸の向こうからはジージーと何か虫の声が聞こえるばかり。
気持ちばかりの生ぬるい風が、扉の上に取り付けられた古い扇風機から届いた。
東邦学園高等部男子寮B棟310号室。
季節外れの転校生だった俺は、幸か不幸か寮の二人部屋を一人で使うことになった。
ホームシックにかかったつもりはないけれど、やはり隣に空のベッドがあるのは少し寂しい。
思えば全日本の合宿もたいてい二人部屋だったし、自宅でも姉ちゃんが高校生になるまでは二人で一つの部屋使ってたもんな。
(自主トレ、したい・・・。外出たい・・・。)
建物はオンボロなくせに、監視の目だけは厳しいんでやんの・・・。
「・・・・・。」
額ににじむ汗を拭う。
俺は寮の玄関口にある警備員室を思い浮かべ、どうにかあそこを攻略できないものか考えながら再び横になった。
コツン
(・・・何?)
硬質な音が耳に届いた。
俺は音が聞こえてきた方向に神経を集中させる。
コツン
気のせいじゃ、ない・・・。
窓に何か当たる音。
もう一度身体を起こし、開け放った窓の網戸を開けた。
「っ・・・!? ひゅ」
しっ・・・ と、奴は人差し指を口にあてる。
それから、降りて来い、と手招きした。
(降りて来いって、ここ三階だろうが!!)
俺の表情を読んだかのように、今度は手を大きく動かしはじめた。
「・・・・・・・」
(木を、つたって降りて来い、と・・・?)
とっととしろや、と言いたげに、下から思くそガン飛ばしてきやがる・・・。
(ったく・・・。アホが。)
心の中ではそう悪態をつきながらも、顔が嬉しさでにやけているのを自覚する。
スニーカーとボールを掴んで、俺は弾む心を抑えきれずに窓から外に出た。
何の木だかよくわからないが、まるであつらえたかのように、窓から寮の回りをぐるりと囲う塀まで枝をつたうことが出来た。
塀を飛び降りると、やたら偉そうに仁王立ちする日向が目に入る。
「よう。」
「・・・・よう。」
にやっと口の端をあげて、日向は笑った。
「そろそろ限界じゃねえかと思ってな。」
「・・・何のだよ。」
「色々、だ。」
・・・悔しいが当たっているから仕方がない。
でもやっぱりムっときたんで、矛先をかえてみた。
「・・・見つかったらどうすんだよ。」
くだらない質問だな、と思いながらも、とりあえずこの大先輩に聞いておくことにする。
日向がこれが初めての脱走ではないことは、手馴れた指示とこの落ち着き払った態度からも瞭然だった。
日向は、ふむ、と目線を上に移し、それからこう言った。
「見つかったことねえから、わからんな。」
「・・・・・・」
・・・ごもっともで。
「行くぞ。」
日向は持っていたボールを地面に落とし、軽い足取りでドリブルを始めた。
「おわ!ちょっと待てよ!!」
俺も足にひっかけていたスニーカーを履き直し、すぐに追いかけた。
学校の裏手の自然公園は当然人影もなく、昼間の蝉ほどではないが、やはり虫の音が騒がしいほどだった。
グラウンドか芝生広場あたりに行くのかと思いきや、日向は木製の階段をドリブルしたまま登りはじめた。
直線的で力任せだとばかり思っていた日向のドリブル。
それが、まるでボールが足に吸い付いてるかのように、軽やかでスピーディーになっている。
ああ・・・ 岬のドリブルみたいだ。
「日向、」
「なんだ?」
「毎日来てるのか?」
日向は一度、ポーンとボールを上に蹴り上げキャッチすると、後ろの俺の方に振り返った。
「雨降ってなきゃな。」
遅れて追いついた俺も、一度足を止める。
「一人で?」
「ああ。」
「反町とか、若島津は?」
「つき合わせて、見つかったら悪ぃだろ。」
「・・・・・・・・・・」
ちょっと待て。
それなら何故俺を誘った?
「・・・俺なら見つかってもいいのかよ。」
「・・・・・」
明らかに「あ。」って顔したぞ、今・・・。
日向は誤魔化すように、再びドリブルを始めた。
「あ、おいっ コラ!!」
「ほら、あいつらは特待生じゃねえから。」
「特待生なら甘くみてもらえるってか!?」
「たぶんな、たぶん。」
「今思いついたろ、その理由っ」
「るせーな。喋りながら走ってると舌噛むぞ。」
気づけば日向との距離はどんどん離れるばかり。
全速力でドリブルしたが、日向の姿は見えなくなってしまった。
ようやく追いつくと、そこは高台の展望広場で。
ただベンチがいくつか置いてあるだけだが、夜景はかなりキレイだった。
夜景を見ながら乳繰り合っている(古・・・)カップルでもいやしないかとドキドキしてしまったが、どうやら俺たち以外には誰もいそうにない。
(・・・・あ、学校見える・・・)
「おせーぞ。」
「・・・るせー・・・」
息を切らしながら日向に近づく。
気づくとスニーカーの紐が解けていて、俺はそれを直す為にしゃがみこんだ。
「・・・あいつらは、」
「あ?」
何の前触れもなく、唐突に話し始めた日向を見上げる。
「俺の言うことはきっと断れない。」
「何?」
「でも、お前は断れる。それでも、断らずに誘いにのったんだろ?」
「・・・・・・」
言いたいことは何となくわかる気がする。
結局、誘った日向が悪いんじゃなくて、誘いにのった俺の自己責任だって言いてえんだろ?
でも・・・
「お前、今思いついたろ。それ。」
「まあな。」
まあな、じゃ、ねえっつーの。
いたずらな笑みを浮かべ、リフティングを始める日向。
そんな奴の後姿を見ながら、俺は、それでも誰でもない、俺を誘ってくれたことに、
優越感を感じずにはいられなかったのだ。