天気予報を見てこなかったわけじゃない。

見てきた。ああ、見てきたともさ。

でもまさか、こんな事になるとは思わないじゃないか。

「あれ、一応ダブルなんだが。」

と、日向は恐いことを言う。

アホか。

ダブルだからなんだっちゅーねん。

無視して頭からタオルケットを被ったが、窓を叩く激しい風雨の音はいつまでも聞こえていた。

      *   *   *   *

「……で、なぜにお前がここにいるんだ?」

「おう。久しぶりだな。」

時刻は午後4時をまわっていたが、まだまだ真昼間のように外は明るい。
大通りから少し入った小路の小さなカフェ。
煉瓦の壁には青々とした蔦の葉が這っている。
オープンテラスの小さな椅子に「入りきりません。」
とばかりにムカつくくらい長い足を組んで座り、
偉そうにアイスコーヒーを飲んでいたのは他でもない、日向だった。
濃いグレーのヘリンボーンシャツにジーンズ(でも高そう…)
という至ってシンプルなふっつーの格好の癖にやたら目立ってやがる。
周りもおそらく気づいているだろうが、
近づくな的オーラをびっしびし出してるから誰も寄ってこない、
ということにたぶん本人は気づいていない。
というか、気にしていない。

「…反町は?」

微妙な距離感を保ったまま、俺は尋ねた。

「急用で迎えに来られなくなったそうだ。」

…急用て…

「で?なんでお前?」

「俺じゃ役不足か?」

にやりと笑って「座れ」と促す。
なんだか釈然としないまま、俺は大きめのバッグを足元に置き、
奴の向かい側の椅子に腰を下ろした。
なんだかケツの辺りがむずむず落ち着かないような気分。
すぐに若い女の子の店員さんが注文を取りに来て、とりあえずアイスカフェオレを頼んだ。

「いつ、こっちに帰ってきたんだ?」

なんとなく、当たり前の当たり障りの無い質問をしてしまう。

「一昨日。オフに入った。」

「オフの度に日本に帰って来てんのかよ。」

「そんなわけねーだろ。」

そう言って日向はアイスコーヒーを一口飲む。カラン、と氷の涼しげな音が鳴った。

「まあ、今回はちょっと長かったしな。」

「ふうん。」

「お前も、お前のチームも調子良さそうで何よりだ。
あのミドルシュートはいかにも松山らしくて胸がスカッとしたぜ?」

何だかすぐそばで見ていたような言い方だな。
昨日の反町んとことの試合のことを言われてんだよな?

「あ?ああ。さんきゅ。何?ニュースで見た?」

「バカにすんな。生だ生。」

「って、お前、スタジアムに来てたのかよ?!!」

してやったりとにやにや笑う日向を前に、俺は何故だかめちゃくちゃ恥ずかしくなった。
いや、サッカー選手なんだから、サッカーの試合観に来て当たり前なんだろうけど、なんとゆーか…

注文していたアイスカフェオレが運ばれてきて、
俺はストローも使わずにとりあえずガブガブと飲んだ。

「ひ、控え室に顔ぐらい出していけば」

「良かったか?」

「う。」

嫌だな…

「観に行くって連絡くらいよこせば」

「良かったか?」

「う。」

やっぱ嫌だな!!

「けど、なんか、こっそり見られてるみたいで」

「お前は俺に試合を見られて困るようなことがあるのか?」

「……ねえ、けど。」

どうしようもなく居たたまれない気持ちになって、今更ストローの袋を開けてグラスにつっこむ。
日向は相変わらずにやにやとしながらこちらを見ていた。

「さてと、そろそろ行くか。松山、どっか寄りたい所あるか?」

「いや、ないけど。」

「せっかくこっち出てきてるのにないのかよ。」

「…別に東京なんてしょっちゅう来てるだろ。」

人のことをオノボリサンみたいにゆーな。
むっとしていると日向は「そうか。」と言って立ち上がり、2枚の伝票を掴んだ。

「何だよ。払うって。」

「オノボリサン扱いした詫び。」

って思いっきり頭ん中読まれてるし。んっとにいちいち腹が立つ。
そんでいちいち腹を立てることにまた腹が立つ。
バッグを肩に担いでいるうちに、すたすたと日向はレジに向かっていた。


店を出て、何の迷いもなく歩き続ける日向の後を、俺は慌てて追いかける。
駅に向かっている風でもなくて、
俺は最初車で来ていて駐車場にでも向かっているのかと思ったんだけど、
それにしては繁華街からどんどん離れて住宅街へと入っていくし。

「ひゅーがっ」

「うん?」

ようやく奴は立ち止まって俺を振り返った。

「お前、歩くの早いっ」

「ああ、わりぃ。」

「っつか、どこ向かってんだよ。」

「俺んち。」

「は?」

「そこ。」

日向が指差した方向には白い壁の真新しそうなマンションがあった。

「…お前、こっちにいる時は実家じゃないのか?」

「基本はそうだが、こっちの事務所が所有している部屋を自由に使わせてもらってる。」

事務所の近くで何かと便利だからホテル代わり、と付け足した。

慣れた手つきでオートロックを解除して中に入る。
まるでホテルのようなロビーを通りエレベーターに乗り込むと、最上階まで一気に上がった。

「…お邪魔、します。」

「どーぞ。」

明らかにほとんど使ってないけど、綺麗に掃除された部屋。
定期的に業者でも入っているんだろうか。
リビングにはテーブルとソファとテレビ。カウンターの向こう側にはキッチン。
戸の開け放たれた続き間にはベッドが置いてある。随分と広めの2LDKだった。

「雨降りそうだな。」

カーテンを開けながら日向が言った。

「降るって言ってたぜ?」

俺は適当に荷物を降ろし、ソファに腰を下ろした。

「まあ、飲み会の会場はここから歩いて十分もかからんからな。
反町もここで二次会でもやろうとか企んで場所決めたんだろ。」

「ふうん。」

「って、お前、場所も確認せずに来たのか?」

「だって反町と一緒なら迷わないし。」

「…まあ、いいが。コーヒーでも飲むか?」

なんだか、落ち着かなかった。
もうお互い大人なんだし、
昔みたいに顔見りゃ喧嘩なんてことがなくなったのは当たり前なんだけど。
日向を包んでいる空気が、今までと違う。
日向が、俺を見る目が、今までと…違う。
そういうことに気づいたのはいつの頃だったろう?

特に話をふったわけでもないのに、日向はやけに饒舌で。
サッカーのことも、サッカー以外のことも…驚いたこととか、日本との違いとか…
やけに楽しそうに色々と話してくれた。

いつ頃から降り出していたのかはわからないが、
気づいたときには窓を叩く音がうるさいくらいの大雨になっていた。
日向がテレビをつけ、地デジの連動データで天気予報を選択する。
まだ警報は出ていないが、開いた傘に斜めに降り注ぐ雨のマークが地図を埋めていた。

「…止みそうにないな。松山、いつ帰る予定なんだ?」

「明日の夕方。」

「それまでには回復してるか。」

明日は雨のち晴れの予報。たぶんどうにかなるだろう。

と、バッグの中の携帯が鳴った。慌てて中をあさって携帯を取り出すと、反町からの着信だった。

「もしもし?反町?」

「あ、松山?いまどこ?日向さんとは会えた?」

「会えた。今日向のマンション。お前なんで日向のこと黙ってたんだよっ」

「や、驚くかなと思って。」

「そりゃ驚いたけどっ」

「まあ、でもそこにいるんならいいか。
万が一、一人で東京砂漠をさ迷い歩いてたらどうしようかと思った。」

なにが東京砂漠だ… 今更迷わないっつーのっ どいつもこいつも…

「今日飲み会中止ね。」

「は?!」

「電車止まってんだよね。」

「マジで?!」

「っつーわけでまた次の機会に。今回はホームで負けて格好ワルワルだったけど、
次は絶対負けないからね〜。北海道行った時はおいしいもの食べさせてよね。
よろしくぅ。んじゃ、また!」

え?!ちょ、ちょっと待て!!!

「おいっ 俺、お前んち泊まる予定だったんだぞ!!」

「だから、日向さんのマンションにいるんだろ?泊まればいいじゃん。
ほんじゃ、気をつけて帰ってね〜。」

「おまっ…勝手なこと言」

…切れた。

「なんだって?」

日向がテレビの電源を切ると、また雨音が大きく部屋に響いた。
俺はしばし呆然と一方的に切られた携帯の画面を見つめていた。

「松山、反町だったんだろ?なんだって?」

「電車止まってるから今日中止だって…」

「ああ、だろうな。この雨じゃ。」

さほど驚く様子もなく、日向はソファーから立ち上がるとキッチンに向かった。

「二次会用にと思って食材買い込んでおいて正解だったな。」

冷蔵庫からあれこれ取り出し、慣れた手つきで日向は料理の準備を始める。

「…なんか、手伝うか?」

「テレビでも見てろ。一人の方が早い。」

一瞬むっとしたが、実際本当のことだから仕方ない。
俺はどうせ料理なんかできねえし、日向は料理が得意らしいから。
先ほど電源を切ったばかりのテレビを再びつけると、適当にチャンネルを変えた。

「松山。」

「うん?」

「泊まっていくだろ?」

「…あー。うん。悪ぃな。」

メシを食って(腹の立つことに予想通り旨かった。)風呂を借りた。
ビールを飲みながらBSでプレミアリーグの試合を観てたのに、
この大雨のせいで途中から電波を受信できなくなってしまった。
チャンネルを変えてみたが特に観たい番組もなくて、結局電源を落とした。

雨は一向に止む気配は無く、むしろ激しくなる一方…。
まるでこの部屋に閉じ込められているような、妙な感じがした。

「まるで台風だな。」

風呂から上がってきた日向が髪を拭きながら冷蔵庫からビールを取り出す。
Tシャツにグレーのスウェットパンツでおっさんみたいな格好のくせに、
それなりに見えるからなんか腹立つ…。
足長いって得だな…とか思いながら眺めていたら、またあのにやにや笑いで俺のことを見やがった。

「なに見とれてんだよ。」

「み、見とれてなんかねえよ!アホか!」

残っていたビールを飲み干すと、ごろんとソファに横になった。
目を閉じると、思いのほか一気に睡魔に襲われる。
レザーの冷たい感触が酒でほてった身体の熱を奪って気持ちいい。

と、ふわりと何かが身体を包んだ。

「んなところで寝ると風邪ひくぞ。」

日向の投げたタオルケットだった。ふわふわで洗剤のいい匂いがする。

「松山?眠いのか?」

「眠く、ない…」

って、こんなところで意地張ってどうすんだと思いながらも、ついつい反対のことを言ってしまう。

「客用の布団とかねえぞ。」

「…ここでいい。」

「あれ、一応ダブルなんだが。」

…何を言ってるんだお前は。アホか。ダブルだからなんだっちゅーねん。
無視して頭からタオルケットを被った。

不思議なことにさっきまであんなに眠かったのに、急に目が覚めてきてしまった。
バカがおかしなこと言うからだ。
ああ、本当なら今頃みんなで飲んで騒いで反町のうちに泊まっているはずだったのに、
この大嵐ときたらなんて迷惑な…。
そんで、俺の事なんか放っておけばいいのに、
さっきからずっと、すぐそばに日向の気配を感じるし。

ふいに視界が暗くなった。
そっとタオルケットから顔を覗かせてみると、どうやら日向が部屋の電気を消したようだった。
キッチンの明かりだけが点いていて、食器を洗う音が聞こえた。
作ってもらったんだから洗い物くらいすれば良かったと思ったが、
今更起き出すのも何だか変な気がして寝たふりをする。

そのうちキッチンの明かりも消えて、雨音に混じって日向が部屋の中を歩く音が聞こえた。

そして

「っ… な、にっ」

いきなりふわっと身体が宙に浮いた。

「やっぱ起きてたのか。」

「なにすんだっ」

「だから、あのベッド、ダブルなんだ。」

「だからってなんだよ!!ここでいいって言ってんだろ!!」

抱き上げられた身体は軽々とベッドに投げ出され、巻きついていたタオルケットを剥ぎとられた。

「っ…」

すぐ近くに、日向の、顔。

「…んだよ…」

「こうでもしないと、いつまでたっても何もできねえからな。」

「な、にが…」

「大嵐に感謝だ。」

窓を叩く激しい風雨の音。

手が、脚が、唇が熱い…

この熱さも激しい嵐がかき消してくれればいいのにと思いながら、
抗いようのない渦の中に飲み込まれていった。

(続く)


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