「おはようございます。」
聞き覚えのある、透き通った綺麗な凛とした声。
ゆっくりと目を開けると、見覚えのない景色がぼんやりと目に映った。
…ここ は…
「日向さん、帰りますよ。」
「ぬお!!」
「おはようございます。」
「お、おはよう、ございま、す。…ええと、さと…」
「里中です。」
立っていたのは長い黒髪を上でまとめ、黒いスーツをビシっと決めて立っている、里中さんだった。
この人とは数回会ったことがある。
小泉さんの秘書(だと思う。)だ。
それが務まるだけの人だから、こう、常にキビキビしていて、無駄がないというか何というか。
俺としてはどちらかと言えば苦手なタイプではあるんだが。
いやいやいやいや、そんなことより、ここは一体どこなんだ???
確か、小泉さんと六本木のホテルのスカイラウンジで飲んでて、そんで…
辺りを見回すと、どうやらホテルの一室。
しかもかなり高級な。
「里中さん、ここは」
「六本木のNホテルのスイートルームですが。」
「…ああ。」
なるほど。
そのまま宿泊したわけだ。(もちろん小泉さんマネーで。)
って、俺…
まっ… まさか、里中さんと?!!!
いや… ちゃんと服着たままだもんな。
って!!まさか小泉さんと?!!!
いやいやいやいや、恐ろしすぎるからそれだけはマジで。
想像するだけでも身震いがするぜ…
まあ、察するに、飲み過ぎてる俺を小泉さんがここに泊らせて、
小泉さんの指示でつい今しがた里中さんが派遣されてきたってとこだろう。
「痛…」
ベッドから下りようと身体を動かしたら、二日酔いの頭にガッツリ響いた。
やっぱ、さすがに飲みすぎたな…
「どうぞ。」
すでに準備してありましたが?と、ばかりに、里中さんが薬と水の入ったグラスを差し出してくれる。
どこまで出来る女なんですか、あなた様は。
「むこうのテーブルに小泉先生が用意して下さったスーツが置いてありますので、着替えて下さい。」
「…はあ。」
何故?と聞くと、里中さんは顔色一つ変えずに
「シワシワの服で外に出られると困るからです。」
「……」
…いやいや、だから、それが何でだ?って聞いてるんですけども…
まあ、いい。
俺が「了解」と言うと、里中さんはお辞儀をして
「では、私は用意が出来るまで外で待機しておりますので。」
そう言って部屋を出て行った。

里中さんの言った通り、テーブルには箱に入ったスーツがあった。
そしてメモには

『昨夜は楽しかったわ。お礼にプレゼント。代表のトップ選手ならこれくらい着こなしなさいね。
 例の件は私に任せなさい。その分しっかり返して頂きますからそのつもりで。 小泉』

…はい??
例の件って、何だ??!!
そして俺は、一体何を返せばいいんだ??!!





里中さんの運転する、濃いブルーの外車の助手席に乗せられ、俺は自宅に向かった。
…そーいや、俺、松山に何の連絡もしなかったな。
いや、別にいつもいつも連絡してるわけじゃねーけど、
最近は一応、なんとなく、お互いのスケジュールくらいは把握してる感じはあって。
って、アイツの場合はメールチェックしてないことも多々あるんだがな。

「里中さん。」
「何でしょう?」
「小泉さんが言ってる、例の件って、なんのことだろう?」
「さあ。私は何も存じ上げませんが。」
「…そっすか。」
まだ通勤ラッシュには早いらしく、道はすいていた。
今日も朝から天気が良く、暑くなりそうだ。
じきに窓の外は見慣れた景色になってくる。
里中さんの運転は丁寧で、そしてまるで裏道を熟知しているタクシーの運ちゃんがごとく
一切迷うことなく自宅マンションの前に到着した。
「ありがとうございました。」
「いいえ。仕事ですからお気になさらず。」
…ううん。ここで笑顔のひとつでも見せてくれるといいんだが。
車を降り、ドアを閉めるとすぐに窓が開いた。
「あ、日向さん。」
「?」
「今後、私、日向さんとご一緒することが増えるかと思いますので、よろしくお願いします。」
「…はあ。なんで」
「では。」
即行で窓が閉まって、即行で走り去って行った。
っつか無視すんなーーー!!!
ご一緒することが増えるって… えええ…
ちょっと憂鬱な気分になっていると、背後に気配を感じた。
「… おかえり」
「おっ…  た だいま。」
Tシャツに短パン、サンダル姿の、松山だった。
…今の、見られていただろうか…
別に困ることは、全然、全く、ないんだが…
「ゴミ、出しといた。」
「あ、ああ。そうか。悪ぃな。」
変な空気のまま、俺たちは入口玄関のオートロックの番号を押す。
自動ドアを抜け、今度はエレベーターのボタンを押した。
「…日向、なんでスーツなんだ?」
「あー。これは、だな。まあ、説明すると長くなるんだが… 小泉さんにもらったんだ。」
小泉さんって、知ってたよな?と聞くと、松山は頷いた。
「あの、代表の広報担当の人だろ?昔は東邦のスカウトマンだったとかいう」
「そう。東邦の頃から…今もずっと世話になってて。昨夜は小泉さんと飲んでいた。」
「ふうん。」
エレベーターが到着し、俺たちは乗りこんだ。
松山が最上階のボタンを押す。
「じゃあ、さっきの女の人は」
「っ…」
ドアが閉まると同時にされた質問に、俺はドキっとした。
さっき『見られていただろうか』と思ったように、何もないのに、急に後ろめたさで一杯になって。
そんな必要、まったく、ないのに…
「…あれは、小泉さんの秘書だ。うちまで送ってくれた。」
本当のことを、ありのままに言っただけなのに、自分の声が震えているような気がした。
松山は「へえ」と言って、俺から目線を逸らす。
エレベーターが目的階に到着して、狭い空間から解放されたような気がした。
同時に、わけのわからない、罪悪感からも。
「昨夜は、久しぶりに飲み過ぎちまって… そのままホテルに泊まったんだ」
「ふうん」
「あ、いや、ホテルっつっても、あれだぞ?別に普通の」
「何にも言ってないだろ。」
「お、あ、そー だな…」
うわあああああ!!!
俺は、俺は一体何を焦っているんだ?!!
そして言えば言うほど、嘘くさくなっていくのは何故なんだーーーー!!!!


部屋に戻ってからも、ひたすらに横滑りしているような感じがした。
小泉さんからプレゼントされたスーツをハンガーに掛け、部屋着に着替えてから朝食の支度をする。
「松山、朝飯食うだろ?」
「あ、俺、いいや。さっき軽く食った。今日朝練あるから、もう学校行くし。」
「…おう。そうか。」
松山はバタバタと支度をして出て行った。
残された俺は、なんとも…微妙な…
「はあ。」
思わずため息をつき、さっき火に掛けたやかんの水が沸騰するまで、とソファに腰を下ろす。
ふいにテーブルの上に置き去りにされた雑誌に気付いた。
「……」
それは、松山が最近熱心に見ている賃貸物件の情報雑誌で…
開かれたページの1つの物件に、大きく丸がつけられていた。









翌日、早速俺は小泉さんが言っていた『返すもの』が何なのか分かった。
ついでに、里中さんとご一緒する機会が増えることの意味も。

「じゃあ日向さーん。目線こっちにくださーい。」
バシャバシャっというシャッター音とともにライトが眩しく光る。
カメラマンの周りにいるスタッフが集まっては何か話をして、
その間に俺の前髪を直しにヘアメイクさんが近づいてくる。
ああ… 早く終わんねえかなあ…
こんなに沢山撮影したところで、どうせ使うのは2、3枚だろうによ…

「ではお疲れさまでした〜」
と、やっと解放されたと思ったら、待ち構えていた里中さんに再び連行され車に乗せられた。
「次は雑誌の取材。サッカー解説者の方と対談です。」
「…俺に仕事を選ぶ権利はないんだろうか…」
「さあ。私は小泉先生の指示に従うまでですので。」
ああそーですかい。
後部座席でネクタイを緩めながら、俺は大きくため息をついた。
っつか小泉さん… 俺は一体、あんたに何を頼んだんだ??
何の代償に、俺はこんなに働かされているんだ??
さっぱり見当がつかない。
「それが終わったら」
「まだあるのか?!」
「はい。代表の合宿が近いですから、その前に仕事が詰まってますので。」
「…… へえへえ」
「スポンサーの、店頭用ポスターの撮影があります。若島津さんと。」
「…あ。」
「何か?」
「いや。何でも…」

そう言えば…若島津と喧嘩したままだった…。








撮影の間は挨拶と必要以上の会話を交わさなかったが、終わった後、若島津の方から声をかけてくれた。
「日向さん、この後飯どうですか?」
「ああ。」
里中さんの顔を見ると、察したようにスケジュール帳を開いて
「本日は終了です。お疲れさまでした。よろしければお送りしますよ。」
若島津さんもどうぞ、と言ってくれた。



若島津とよく来るこの居酒屋は奥に個室があって、俺たちはいつもそこに通された。
落ち着いた雰囲気でリラックスでき、料理も間違いなく上手いこの店が二人とも気に入っている。

「俺、結構凹んでたんですよ。」
日本酒の入った小さなグラスを傾けながら、若島津は言った。
「2連敗したのは日向さんのせいです。」
「…それはねえだろ。」
「いや、そうですよ。」
そう言って悪戯な笑みを浮かべる。
ああ。いつもの若島津だ、と安心した。
「すみませんでした。余計なことを言ってしまって。」
「いや。俺こそ悪かった。」
ちょっとだけな、と付け加えると、若島津はまた笑った。
それから今度は少し苦笑いして、俺の顔を見て。
「俺、ね。多分、ヤキモチ妬いてたんだと思います。」
「…なんだそれは。」
「だって、松山の奴、お前んちかよ!みたいな気の抜けようだったじゃないですか。」
「ああ。だから、それが何だってんだよ?」
若島津はタコわさを口に運んで、日本酒を一口飲んだ。
「だから。俺の方があんたとの付き合いはずっと長いはずなのに、俺より全然あんたに気を許してるっつーか。
 あんたが、そういう松山を許してるっつーか。」
「?よく分からん。」
「熟年夫婦かー!!!みたいな感じで。」
「???」
ますます分からん…。
若島津は、とにかくズルイだことの、なんか悔しいだことの、ぶつぶつと言った。
「まあ。もういいですけどね。松山もようやく引っ越す気になったみたいですし。」
「ふーん」
…………って
「ああ?!!」
いいいい、今、なんて?!引っ越す気になったって?!!
思わず若島津の顔をばっと見上げると、若島津はきょとんとして
「あれ?日向さん、聞いてないんですか?」
聞いてねえ!!!聞いてねえわーーーーー!!!!
いや、雑誌は目撃したけどもっっ
いつの間にそんな具体的な話になってたんだ?!
っつか、なんで松山は俺に言わねえんだ?!!
「反町が電話で言ってましたよ。で、来週、日向さんとこと試合があるでしょう?
 その時に引っ越しパーティーをしようって話に… って、日向さん、聞いてます??」
「………おう」
急に、頭ん中が、真っ白になった…。


(続く。)

我ながら、のんびり展開なお話だなあと。
ええ… のんびりお付き合いください。
ちなみに、里中さんは「仮●ライ●ー オー●」の里中さんからとりましたv
里中さん、なにげに好きでした。(笑)

楽園3   top   楽園5